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トップページの中川衛(昭和40年採鉱科卒業)さん紹介
2005/12/08

 写真は昭和39年東京オリンピック聖火リレー、秋田県庁から秋田県知事小畑勇二郎氏から聖火を受け、秋田工業高校5,000m全国優勝者中川衛さんが秋田県スポーツ界を代表して、秋田県庁前の大観衆、東京渋谷の国立競技場を目指す聖火ランナーの第一走者の姿です。貴重な写真をお借りすることが出来ました。


 走る姿を象徴するように、当時の秋田工業高校は創立60周年、当時の秋工はラクビーでは全国優勝、野球は甲子園、体操、バスケットでも全県優勝とともに全国でも入賞するなど、「学校は燃えていた」と当時を語る先生が多い、当時の先生は、「彼らは、スポーツだけでなく学業成績がすばらしく、今の秋田南高校より良い大学に行ったものだ」そんな言葉も聞かれる。


 写真の様子はテレビでも放映されましたが、「中川さんがもし東京在住だったら東京オリンピックの最終ランナーに選ばれたことも確かだ」と言う話しも良く聞かれました。その最終ランナーには東京在住の400m全国優勝の坂井義則さんが選ばれ、近代国家に近づく日本の姿を象徴しました。


 中川さんは秋田工業高校を卒業して当時陸上競技選手では一度は夢見る早稲田大学に進学、10,000mでは秋田県記録の29分台という大記録を樹立、ここ最近まで記録が残っていました。多くの国体やインターハイ、全国大会に出場、国体、インターハイで5,000mで14分台で優勝しています。 土のトラックでの14分台は今の選手では走れないでしょう?


 昭和40年代前半、中川さんは早稲田大学生として秋田県内の国体予選などの大会に出場、10,000mでも中川さんについていける選手がいないため、中川さんから何周も離される選手が多く、当時の高校生の間では「審判員も何周か数えるのが大変だ」そんな話しも聞こえました。


 秋田に帰ってから経法大学などの指導にあたっておりました。
(中川さんの指導に期待する中央地区高校の学校長)
現在でも中川さんの指導者として復帰を期待する関係者も多いですが、陸上競技団体は高齢化になっています。

 世代交代もなかなか進まず、高校の指導者も退職とともに指導部門から遠ざかる現状では、陸上競技選手の減少に歯止めがかからない、陸上競技選手には失業している選手も多く、現役世代で活躍する中川さんたちから指導者として選手の就職指導にもあたってもらいたい、退職した人間が就職を世話するのは極めて難しい現状だから

おくやみ
2005/12/08

 八柳善咲(昭和43年電気科卒業)さんが亡くなりました。
五城目町大川中学校出身の八柳さんは、中学校時代は野球部で活躍、中学校の成績は学校ではトップクラスだったと、中学校時代の恩師小林先生(潟上市昭和在住)が語ってくれた。

 我慢強く、頭の良い子だったと お母さんの印象も深く、一生懸命な姿のお母さんを語ってくれました。彼はガッチリタイプながら長距離が得意だったようで自分で長距離種目に進んで出場、20キロとか当時高校生では大変だった距離を、黙々走り続け3年生には、全県駅伝大会の選手となった。

 能代市役所から八竜町までの12キロ彼が走った。彼は何を感違いしたのか、6キロほど走ったところでラストスパートした。慌てた伴走車の小助川先生と石垣先生、当時伴走車にはスピーカーのセットは無かった時代、伴走車も車の渋滞でついていけず、もう、伴走車では「ヤツは失速したナ」と思われていた。

  ところが ラストスパートの距離では無かったと気がついた八柳選手はそれから、我慢強く走り続け八竜町中継点で待つ、先輩の奥山選手にたすきを渡した。「ヤツだから出来たことだ」今でも語れる彼の執念である。

 高校に入ってすぐ、ラクビー部に入り、秋工ラガーを夢見たが、怪我で泣く生活から一変して陸上競技部に入ってからの、活躍の話しである。

 最初は投てき種目で活躍、それから長距離種目に目を向け、都大路を目指す秋工長距離ランナーとなる。長距離種目の中でも長い距離が彼の得意種目であった。

 高校卒業とともに、千葉県 丸善石油に入社、1級ボイラー技士 熱管理士などを取得し千葉県市原市にマイホームを建て、充実した家庭生活を送っていたが 96年頃から体調を崩し病魔との闘う生活に入り、2005年3月31日 奥さんと2人の子供を遺して旅立ちました。
後列左から3人目が八柳善咲さん(千葉県木更市 関東OB会場)

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